貿易交渉に立ちはだかる国民投票の壁 有権者の声は援軍?足かせ?
世界の貿易ルールが揺らぐ中、各国は輸出先の多様化を加速している。スイスも例外ではないが、国民投票制度がその交渉プロセスを複雑にしている。民意は交渉を有利にするのか、それとも不利にするのか?
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期限は刻々と迫っている。スイス政府は3月31日までに、アメリカによる関税を最大15%とする明文の合意を結ぼうとしている。だが期限までにアメリカと合意に至り、スイス議会がそれを承認したとしても、それで間に合うとは限らない。議会の決定が国民投票に付される可能性があるからだ。ドナルド・トランプ米大統領とその関税に対しスイス国民が抱く反感を踏まえると、最終的に国民投票で可決される保証はない。
スイスには、議会を通過した法案を改めて国民投票にかける「レファレンダム(国民表決)」という仕組みがある。いわば有権者による拒否権の発動だ。議会決定から6カ月以内に5万筆の署名を集めることが条件で、投票が実施されればその結果は拘束力を持つ。
米関税協定をめぐり国民投票が行われるかどうかは、今のところ不明だ。左派・社会民主党(SP/PS)のセドリック・ヴェルムートゥ党首は1月、ドイツ語圏大手紙NZZに「必要であれば」レファレンダムの提起を検討すると語った。だが現時点でアメリカとの交渉は最終合意に至っておらず、アメリカ自身の政情が非常に不安定なため、まだ行動には至っていない。
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対米関税協定は、近くスイスで国民投票にかけられる可能性のあるいくつもの貿易交渉の一つに過ぎない。南米南部共同市場(メルコスール)との自由貿易協定(FTA)は議会の批准待ちで、対中国FTAも改定に向け交渉が進んでいる。
そこで、こんな疑問が生じる。地政学的な変化や貿易ルールの断片化が進む今、国民投票という仕組みは貿易協定に正統性を与えるのか、それとも経済の機動性を落とす障害物になるのか。
法的な近道
スイス政府はかつて、スピード感を重視していた。貿易協定を「標準協定」と称し、国民投票の対象外に位置付けた。貿易相手国がどこであれ、目的や内容が似通っているため、逐一国民投票に付される必要はない、という理屈だ。議会の批准は必要だが、有権者が直接関与することはなかった。
スイスのシンクタンク、アーラウ民主主義研究センター(ZDA)のルイス・ゲビストルフ氏は、この標準協定理論は「憲法違反」だったと説明する。専門家からは法的・技術的に問題があると批判の声が上がったが、国民から抗議されることはほとんどなかった。政府は効率性と予測可能性を盾に、この慣行を続けた。ゲビストルフ氏によると、議会の承認だけで「比較的高い」程度の民主的正統性が与えられていた。
有権者に選択肢を与える
だが次第に、慣行の問題点が明るみに出てきた。きっかけは2013年に締結された中国とのFTAだ。中国の人権問題に焦点が集まり、批准には国民の関与が必要だとの議論が巻き起こった。その数年後、政府が標準協定理論の法制化に乗り出すと、政治団体や市民社会団体からの反発が高まり、慣行は終止符を打った。以来、新しい貿易協定は全て国民投票の対象となった。これは「民主主義の観点からは前向きな進展」だった、とゲビストルフ氏は話す。
こうした変化が起きたスイスは世界でも珍しい存在だ。他の国々では、貿易政策に国民が関与しようとすれば、その手段はロビー活動や抗議活動を起こすか、行政の決定、ときに不正じみた決定を受動的に受け入れるしかない。欧州連合(EU)では直接民主主義が機能した稀なケースもあるが、結果的には失敗に終わっている。米欧間の「環大西洋貿易投資協定(TTIP)」の交渉停止を求めた2014年の欧州市民イニシアチブ外部リンクは300万筆の署名を集めたものの、技術的な理由で欧州委員会に却下された。
スイスの国民投票制度は、この国の貿易交渉にどのような影響を及ぼしているのか。スイスの開発援助系シンクタンク「南同盟」のイソルダ・アガッツィ氏によると、環境・人権系の市民団体は、政治参加の可能性が広がったことを肯定的に受け止めている。これまで実際に国民投票にかけられた貿易協定は、2021年の欧州自由貿易連合(EFTA=スイス、リヒテンシュタイン、アイスランド、ノルウェーが加盟)・インドネシアFTAのみ。それでも、国民投票で覆される可能性があるために、政府は市民社会の声により注意を払うようになった、とアガッツィ氏はみる。
そして対インドネシアFTAの国民投票が賛成票51.6%というギリギリの可決だったことは、国民に受容されることが当たり前ではないことを浮き彫りにした――アガッツィ氏はこう強調する。
国民投票は「手遅れ」?
次なる疑問は、国民投票で覆される可能性があることは、スイスの対外交渉力を弱めているのか、という点だ。ジュネーブ国際開発高等研究所(IHEID)のシャーロット・ジーバー・ガッサー研究員は、その懸念は誇張されている、と説く。同氏によると、交渉の携わったスイス当局者らは、潜在的な国民投票の存在が環境面での譲歩を迫る交渉力になると語っている。対中FTAの改定交渉にもこうした力学が働いており、スイスは人権順守規定の追加を求めているという。
ジーバー・ガッサー氏は民主主義に関して別の点を憂慮する。議会と有権者の関与は真の「参加」ではなく「拒否権」行使にすぎないとみる。賛成か反対かを表明することはできるが、最終案の提示前に密室で決められた協定内容に大幅な変更を加えることはできない。
ジーバー・ガッサー氏は、決定的な瞬間はもっと早い段階、当局が交渉のマンデートを起草する時点だと指摘する。この段階で幅広い政治家や市民社会、有権者の関与を強めない限り、最終的な承認は「うわべ」のものに過ぎない。国民が本当は納得していない合意を受け入れざるを得ないと感じるようなら、政府への信頼が損なわれ、ひいては「民主的権利が空洞化」する可能性もある、と指摘する。
一方、リベラル系シンクタンク「アヴニール・スイス」のミシェル・サルヴィ氏の見解は異なる。スイスの交渉プロセスにレファレンダムが組み込まれることで、企業や市民社会の抱く懸念が交渉そのものに反映されるとみる。国民投票の脅威はむしろ、過剰な慎重さを助長する恐れもある、とサルヴィ氏は懸念する。交渉担当者は「可能な限り最良の結果」を確保することよりも、国内投票を乗り切ることに重点を置く可能性があるという。
だが、それが同シンクタンクの重視する自由貿易を阻害することになるとしても、サルヴィ氏は民主的な関与を制限するべきではないと考える。例えば、欧州議会が1月にEU・メルコスール間FTAの批准を先延ばしにしたことは、一部から大きな批判を買った。アメリカが関税圧力をかける今、ヨーロッパは団結して新たな貿易同盟を開拓すべき、との批判だ。だがサルヴィ氏は、「それが民主主義なのだ」と強調する。
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そしてスイスには、他に選択肢はない。確かにスイスでは時として意思決定に時間がかかり、変化の激しい時代において弱点になるとの懸念もある。だがそれは制度として組み込まれており、長期的にはその価値が証明されている、とサルヴィ氏は説明する。
アメリカとの関税交渉について言えば、交渉の遅れが戦略上有利になる可能性もある。シーバー・ガッサー氏によれば、時間が経つほどトランプ氏が関税構想を変更する、あるいは大統領の座を退く可能性が高まる。スイスの交渉官は批准手続きを「時間稼ぎ」に利用する可能性がある、と同氏は指摘する。
だがこの戦略にはリスクがないわけではない。トランプ氏は1月、韓国の関税協定の批准手続きの遅れを理由に、同国に対する関税を15%から25%に引き上げた。
編集:Benjamin von Wyl/ts、英語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫
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