200年前に描かれたスイス人による水彩画が発見される

今からちょうど200年前にスイス人が水彩で描いた北海道や長崎の港の風景画が6月末、チューリヒ州立大学付属の民族博物館で発見された。発見したのは、同館員のスイス人で、人類学者のフィリップ・ダラス氏である。
20枚の水彩画の保存状況は非常に良く、長崎港を運行する舟や北海道の港を囲む森林などが鮮やかな色で描かれている。スイス・日本通商条約が調印されて本年で140年だが、その60年前すでに、スイス人が日本を訪れていた。フォト・ギャラリーで8枚の絵がご覧いただけます。
パン屋の息子としてチューリヒに生まれたヨハン・カスパー・ホルナーは、地方の政治家も兼業し裕福であった父の援助を受け、ドイツで天文学を学んだ。勉学中、ロシア皇帝アレキサンダー1世が計画した世界一周旅行に参加する機会に恵まれた。2隻に分かれ139人が参加した探検隊でのホルナーの役割は、地図の作成だったが、水彩で描いた各地の風景画も多く残した。これまでその存在が探られていたが、実物を見た人はいなかった。
ロシア世界一周探検隊の「皇帝アドバイサー」
今回チューリヒ州立大学付属の民族博物館で発見された119枚の資料の中に、北海道の森林や長崎港のパノラマなど、日本の風景水彩画が合計20枚ある。ホルナーの絵には人がほとんど登場しないのが特徴である。資料の保存状態は非常に良い。シミや虫食いの跡もなく、水彩画の色も鮮やかである。
アダム・ヨハン・クルーゼンシュテルン船長率いるロシア皇帝の探検隊は1803年、サンクト・ペテルスブルグを出発し、チリのケープホーン、ハワイなどを通り、北海道や長崎にも立寄り、インド洋を越えて、全員無事で1806年に帰国した。
日本に同探検隊が滞在したのは1804年の秋から。当時日本では、たびたび日本近海に姿をあらわすロシアの存在を警戒していた。伊能忠敬が蝦夷地を測量したり、間宮林蔵が樺太探検をしたのもこの頃である。
ロシア探検隊の目的のひとつには、日本と通商条約を結ぶことだった。以前にもラックスマンが日本との通商を求めて失敗している。1804年のロシア使節団の訪問では、レザノフ特使が江戸幕府と交渉したが幕府に拒絶され、翌年春、探検隊は日本を後にした。
ホルナーは帰国後、チューリヒ大学で地図作成の専門家として教鞭をとるが、「出世はしなかったようだ」と今回、新しく資料を発見したフィリップ・ラダス氏。しかし、「ロシア皇帝の探検隊に参加したことが誇りだったのだろう。天文学者、数学者などと名乗るより、『皇帝のアドバイザー』と自称した」と同氏の説明は続く。
自分の名前をつけ日本への思いはことさら
ホルナーは地図を作成しながら勝手に自分で地名を付けていった。今回発見された北海道の地図には、ホルナーの名前が地名として記入されている。「彼の日本に対する思いはことさらだった」とダラス氏はホルナーが残した絵を見ながら、印象を語る。他の土地ではモノクロが多いのに対し、日本で描いた絵は彩色画である。その一枚にはホルナーのサインもされている。他の土地の絵にはサインはない。
探検隊が解散した後、船長のクルーゼンシュテルンとホルナーが交換した手紙が多く残っている。クルーゼンシュテルン船長が中心となって出版された「ロシア初の世界航海」には、ホルナーの水彩画を元にした銅板画が載せられていることから、オリジナルの存在がどこにあるか探られていた。
転職してすぐの発見に大喜び
資料が保存されていた同民族博物館に4月から、助手として働き始めたばかりだったダラス氏の専門はビジュアル人類学という。絵、写真、動画などの素材を通して人類のことを研究する。同氏は特にアイヌに重点を置いて研究をしている。研究課題の関係から、日本では特に北海道が興味の対象である。
同氏が働く博物館の所蔵品の中に、ロシア探検隊が集めた各国の民芸品があることに注目し、ホルナーが持ち帰った資料がまだあると確信していた。そして6月末、倉庫の中からホルナーの絵画と地図を見つけ出したのである。
今回の発見については、秋に人類学のシンポジウムで発表する予定である。また今後も、未発見のホルナー資料が発見されることに期待を抱いている。
スイス国際放送 佐藤夕美(さとうゆうみ)
ヨハン・カスパー・ホルナー履歴
1774年3月21日、チューリヒ生まれ
1803年から1806年まで天文学者としてロシア皇帝の世界一周探検隊に参加
探検旅行では地図を作成する。
日本には1804年から半年滞在。
帰国後チューリヒ大学で測定学を教える。
1834年死亡
自らを「皇帝のアドバイザー」と称した。

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