尊厳ある死と自由な生 ドゥニ・コテ監督が最新作を語る
フランス系カナダ人、ドゥニ・コテ監督の最新作「Nobody’s Violence(仮題:誰のものでもない暴力)」が、2026年ロカルノ国際映画祭で世界初上映された。見知らぬ人に「安楽死」を届ける女性を描き、「死」というテーマを深く見つめたこの作品。その背景には、病気との闘い、生還、芸術的な再生という、監督自身の極めて個人的な体験がある。
スイスは歴史的に、世界でも自殺ほう助(安楽死)実施率が高い国として知られる。近年この世界トップリストに新たに加わったのが、コテ氏の出身地、カナダ・ケベック州だ。報告によれば、医療的な死のほう助(medical assistance in dying:以下MAID)は現在、同州の年間死亡者数の約8%を占める。
長年ロカルノ国際映画祭の常連であるコテ氏は、2005年の監督デビュー以来、数々の賞を受けてきた。だがこの最新作については、自殺ほう助をめぐる政治的メッセージを発することが目的ではないと強調する。
コテ氏は、「もちろんこの映画では、その点について問われるだろう」とスイスインフォに語る。「だがこれはドキュメンタリーではない。自殺ほう助に関して意見を述べる作品でもない」
恐らく、判断は観客に委ねられるのだろう。本作では、コテ作品の常連俳優、ラリッサ・コリヴォーが主人公ミラを演じる。ミラは自分について多くを語らず、観客はこの若い女性がどんな人物なのかほとんど分からない。唯一見えてくるのは、死を望む見知らぬ人々に致死薬を届けることが彼女の仕事らしい、ということだけだ。
カナダ流の生と死
カナダでMAIDが合法化されたのは、スイスの自殺ほう助合法化から約70年後の2016年で、それ以来、国内で大きな議論を呼んできた。MAIDの対象を精神疾患の患者に広げる計画は、2027年まで延期された。だがこの延期措置を巡っては現在、法廷やニューヨーク・タイムズ紙外部リンク上でも異議が唱えられている。国内で気軽に議論できる問題ではないが、望むと望まざるとにかかわらず、コテ氏の半ば実験的な最新フィクション映画もまた、その議論に加わっている。
年に1本ペースで映画を制作するよう努めているというコテ氏は、すでに多くの作品を手掛けてきた。その中でも本作は、コリヴォーとの最初の共同作品となった「ゴーストタウン・アンソロジー(Ghost Town Anthology) 」(2019年)を強く連想させる。同じく粒子の荒いスーパー16ミリフィルムで撮影され、コテ氏が独自のアプローチでホラー映画に挑んだ作品だ。舞台となるケベック州の小さな田舎町で地元の鉱山が閉鎖され、住民は存続という重大な問題に直面する。そこに追い打ちをかけるように、最近亡くなった人々が町の寂れた通りに現れ始め、事態はさらに深刻さを増していく。
コテ氏はこの2つの作品で、生と死を奇妙に交錯させている。「死」を、登場人物が向き合うべき現実的な問題として描く。「ゴーストタウン・アンソロジー 」では、町の指導者が役場に集まり、生ける死者について話し合う。ある公務員はこう言う。「恐らくこれからも亡霊が現れるだろう。だが落ち着いて、できるだけ普段通りの生活を送るよう心がけることが大切だ」
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死を間近で見つめる
MAID支持者の使命が、「死」を議論の聖域から引きずり下ろして現実的な問題として捉えることであるならば、それはコテ氏にとっても必然的なことだった。コテ氏は2007年に腎不全と診断され、年を追うごとに病状がひどく悪化していた。「Nobody’s Violence」は、腎機能が15%まで低下し、透析なしでは命の維持が難しくなると思われた、人生で一番つらい時期に書かれたものだ。
コテ氏はその暗黒の日々を振り返る。「ゴーストタウン・アンソロジーは、病気の進行に結びついていた。病状は悪化し続け、常に、死と具体的で無意識な対話をしているような状態だった。『Nobody’s Violence』は自分の病状を語る自伝映画にしたくなかったので、ミラという主人公を創作した」
コリヴォー演じるミラは、ある種の疎外された「死の天使」だ。映画の前半では、駐車場や郊外の家、ヘビーメタルファンの地下室など様々な場所に遠慮がちに現れ、若者、年配者を問わず、人々に水と一緒に飲む致死量の毒を手渡す。
撮影監督ヴァンサン・ビロン氏のカメラワークは、随所に光漏れ(ライトリーク)があり、どこか温かみを帯びている。だがこの映画は、こうした序盤のシーンで形式的な規律を厳格に貫く。人々が毒を口にする瞬間にカメラが映し出すのは、ミラだけだ。そこでは、「他人が自死するのを助けること」と、「自分で他人の命を絶つこと」の意味・本質的な違いは、重圧にさらされて曖昧になる。ミラを見つめる観客は、ミラがその重大な行為から必死に距離を置こうとしていることに気づく。ミラの表情は、これは「誰の暴力でもない、私の暴力でもない」と訴えているかのようだ。
人生を見つめ、再生する
コテ氏は、片足がこの世界に、仕事を通してもう片方があの世にあるようなミラの姿に、自分自身を重ねていた。「ミラは2つの世界の狭間にいる」とつぶやくように語る。コテ氏は、「Nobody’s Violence」を書き終えて撮影に入る前の2023年8月に、長年待ち望んでいた腎臓移植を受けた。世界は一変した。生きる活力を取り戻し、自分が書いた陰鬱な脚本を新たな視線で見つめ直した。そして、これまでの作品で「死」が主役にあったとすれば、今度は「生」にその役を譲りたい、そう考えるようになった。
コテ氏は、「撮影現場では以前よりずっとエネルギーを感じた」と語る。「どんなことにも対応できる用意があったし、撮影方法にももっと自由を取り入れたかった。以前は体力的に難しかった即興や長時間の撮影も、全く気にならなかった。新しいアイデアも積極的に採用したかった」
「Nobody’s Violence」で最も物議を醸したシーンは、MAIDとは直接関係がない。冒頭から張り詰めていた構成は、作品中盤で崩れ、長尺の即興的な夕食のシーンへと移行する。ミラは脇に退き、観客は、そこに集まる陽気な面々がミラの働く怪しげな会社、つまり闇市場のMAID代替組織の仲間であることを徐々に理解していく。
コテ氏は敢えてそこで何も提示せず、観客をできるだけ長く謎の中に置き去りにする。その、雰囲気に委ねるような幕間的シーンは、あるレビューで「締まりがなく方向性もない」と評された一方、見る人によっては刺激的にも映る。
創造の中に迷い込む
コテ氏は、「私は観客と少し似ている」と言う。「自らの創作を前に、途方に暮れるのが好きだ。全てをコントロールしてしまえば、それはただ何かを『実行』しているに過ぎない。だがあの長い夕食のシーンを前にすると、バラバラの断片をどう組み合わせたらいいか分からず、途方に暮れてしまう。そこに能動性が生まれ、それが楽しい」
脚本だけ見れば、この作品に「楽しい」という言葉が当てはまるとは思えない。だが、監督自身の健康の波と複雑に絡み合った興味深い制作背景が、全てのカットに緊張感を与えている。そして、脚本が持つ「死」や「死ぬ運命」に対する強い執着と、作品の持つ新たな「生」への執着が、生の神秘や映像のライトリーク、奔放な空想の中でせめぎ合っている。「尊厳を持って死ぬこと」をテーマにしたこの作品は、同時に、「尊厳を持って生きること」にもインスピレーションを見出している。
「これからも、こうした自由な映画を作り続けたい。年を取ってブルジョワ的になったり、小綺麗で整理された脚本を使ったりするのではなく、色々なことを試したい。映画制作を続けていけるなら、とても自由で縛られない映画を作っていきたい」。コテ氏はそうインタビューを締めくくった。
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編集: Catherine Hickley、Eduardo Simanto/ts 英語からの翻訳:由比かおり 校正:大野瑠衣子
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