アメリカの薬価引き下げ、日欧市場にも波及 ドラッグロス深刻化の可能性も
アメリカのドナルド・トランプ大統領は、ヨーロッパ諸国に比べて高額な国内薬価を引き下げるため、先進国の最低水準に合わせる「最恵国待遇(MFN)薬価政策」を打ち出している。低価格国の市場から一部の医薬品を撤退させる製薬会社も現れ、ヨーロッパの医薬品供給に懸念が広がる。日本も例外ではない。
トランプ氏は昨年5月、米国の処方薬価格を他の先進国の最低価格に合わせる「MFN薬価政策(以下、MFNと省略)」に関する大統領令外部リンクに署名した。間もなく1年を迎える現在、アメリカの医療費削減を目指す政策の影響は徐々に現れている。この大統領令は実質的に、アメリカの患者に他の先進国と同じ価格で医薬品を提供するよう製薬会社に強制するものだ。
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MFNをめぐっては、スイスの製薬大手ノバルティスや、ロシュの米国子会社ジェネンテックを含む16社が既に米国政府との秘密合意外部リンクに達している。複数の情報筋外部リンクによると、これら企業は今後3年間にわたって関税を免除される。加えて製薬会社は新薬の価格をスイスを含む参照国外部リンクの最低価格に合わせることを約束している。一部企業は米国での研究・製造に対する投資拡大にも合意しており、過去1年間に製薬会社が表明した外部リンク対米投資は総額で3200億ドル(約51兆円)を超える。
政府が薬価を定める日本とは異なり、アメリカでは製薬会社や仲介業者など民間同士の交渉で処方薬の価格が決まる。トランプ政権は民間に任せるだけでなく、MFNに基づく3つのモデル(下記)も導入して医薬品費を抑えようとしている。2月には米国民に直接MFN価格で処方薬を提供するウェブサイト「TrumpRx外部リンク」を開設したが、これも緊張を高める火種になった。製薬会社が最低価格を提示しなければ、注目を集めるTrumpRxから除外されるリスクがあるからだ。
アメリカ政府当局が発表したMFNに基づく処方薬費の抑制モデルには、以下の3種類がある。
【GENEROUS外部リンク(GENErating cost Reductions fOr U.S. Medicaid/米国メディケイドのための費用削減創出)モデル】低所得者向け公的医療保険「メディケイド」を対象とし、2026年1月から導入中。参照国はイギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランス、日本のG7諸国にスイスとデンマークを加えた8カ国。
【GLOBE外部リンク(Global Benchmark for Efficient Drug Pricing/効率的な薬価設定のための世界基準)モデル】高齢者向け公的医療保険「メディケア」の中でも外来治療等をカバーする「メディケア パートB」を対象とし、2026年10月に導入予定。参照国はGENEROUSの8カ国を含む19カ国。
【GUARD外部リンク(Guarding U.S. Medicare Against Rising Drug Costs/膨張する医薬品費から米国メディケアを保護する)モデル】メディケアの中でも処方薬をカバーする「メディケア パートD」を対象とし、2027年1月に導入予定。参照国はGLOBEと同じ。
熾烈な駆け引き
専門家は、MFNの実施方式には依然として多くの不確定要素があるものの、欧州諸国はこの政策を真剣に受け止めるべきだとみる。
イギリスのコンサルタント会社ライトニング・ヘルスのジェームズ・ホワイトハウス氏は、3月上旬にアムステルダムで開催されたヨーロッパ最大級の医薬品価格設定専門家会議「エビデンス・プライシング・アクセス会議」で、「MFNは長期的に存在することになる。米国の政治は現在、国内の保健医療政策を他国に押しつけている」と語った。同氏はスイスインフォの取材に対し、これはヨーロッパに広範囲にわたる影響を与えると述べた。
アメリカが世界の製薬企業の意思決定を揺さぶるのは、ほとんどの製薬大手が同国で収益の少なくとも半分を上げているためだ。理由の1つに、他の先進国の4倍外部リンクにもなる高額なブランド医薬品がある。
スイスの銀行最大手UBSのアナリストは2025年5月に発表した報告書で、アメリカで価格を引き下げれば製薬企業の収益や利益が大幅に減少すると述べている。2024年にメディケアで販売された上位50品目や、10年後までにトップセールスになると期待される10種類の新薬に基づく予測では、2028年に製薬大手の純利益は8%落ち込むと見積もられている。
各国の製薬会社や業界団体は、アメリカでの収益減を補うためにヨーロッパの薬価が上がらなければ、ヨーロッパで医薬品へのアクセスが低下し、投資も縮小するという暗い見通しを立てている。
MFNで米政府と最初に合意したのは、売り上げで世界トップ3に入るアメリカの巨大企業ファイザーだ。同社のアルバート・ブーラ会長兼最高経営責任者(CEO)は、1月外部リンクに開催されたJ.P.モルガン・ヘルスケア・カンファレンスで、米国価格をフランスの水準に引き下げるか、フランスへの供給を停止するか、どちらかの選択を迫られれば、「我々はフランスへの供給を停止する」と述べた。
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イギリスの独立系医療市場コンサルタント、ニール・グルバート氏は、「MFNが発表される前でさえ、製薬業界はヨーロッパの価格設定環境を強く批判し、価値を理解していないと主張してきた」と述べた。ヨーロッパは既に、世界的な研究開発投資のシェアがアメリカや中国に比べて低下している。「欧州各国政府は今や、トランプ大統領からも圧力をかけられている」
特にリスクが高いのは、スイスやデンマークのような小規模で富裕な参照国だ。国内経済が製薬部門に大きく依存する一方で、医薬品市場への影響力は小さい。
ロシュは昨年7月、スイス連邦内務省保健庁(BAG/OFSP)との価格交渉が決裂し、がん治療薬「ルンスミオ」をスイスの保険適用医薬品リストから取り下げた。患者は現在も特別なチャリティープログラムを通してルンスミオを利用できるが、この薬とその価格は保険適用医薬品リストに掲載されていない。ロシェの広報担当者はスイスインフォの取材に対し、スイスでのルンスミオの取り下げはアメリカの政策とは関連がないと述べた。
MFN合意企業の1社であるアメリカのバイオテック企業アムジェンは最近、コレステロール低下薬「レパーサ」をデンマーク市場から撤退させた。理由に挙げたのは「世界市場動向」の変化だったが、デンマークの地元メディアは、原因はMFNの圧力だと推測している。アムジェンは2025年10月にレパーサの米国価格を60%引き下げ、これは先進7カ国(G7)の最低価格だと説明外部リンクした。
スイス・バーゼルの医療市場コンサルタント、エリザベス・ブロック氏は、「一部の企業は、革新的な新薬は米国価格が確定するまで他国で発売せず、米国価格の下落を避けるのが合理的なやり方だと話している。価格がなければ、米国が比較する対象も存在しない」と述べた。
緊縮政策の副作用
トランプ氏が大西洋の向こう側から圧力をかける一方で、欧州各国政府には価格引き上げが難しい国内事情がある。スイスやドイツなど、多くの国の保健当局がこの10年間で増加を続ける薬剤費の引き締めに乗り出している。
スイスの基礎医療保険の医薬品支出外部リンクは2024年に94億フラン(約1兆9000億円)となり、過去最高額を記録した。2014年に比べて64%の伸びで、押し上げたのはひと握りの高額な新薬だ。
日本の調剤薬剤費の電算処理分による速報値によれば、薬剤料は5兆3711億円(2014年度外部リンク)から6兆592億円(2024年度外部リンク)に増加し、伸び率は8.9%にとどまっている。日本で薬剤費に大幅な伸びが見られないのは、長年にわたる医療費抑制政策に加えて、新薬の申請・承認件数が他の先進国に比べて少ない点が要因になっている。
民間交渉で随時価格が決まるアメリカとは異なり、日本では厚生労働省が薬価を決定し、原則として2年ごとに引き下げられていく。高額な薬価の設定が難しい日本市場では、新薬を投入しようとする企業のインセンティブが弱く、海外に比べて申請・承認が遅れる「ドラッグラグ」や、申請・承認がされない「ドラッグロス」が起こりやすい。MFNのために製薬会社が日本市場での発売を見送れば、この問題に拍車がかかる可能性がある。
製薬大手イーライリリーのデービッド・リックスCEOは、日本経済新聞の取材に対し、「低い薬価のままでは日本で売る新薬は確実に減る」と述べている外部リンク。欧州製薬団体連合会(EFPIA)のシュテファン・エルリヒ会長は、昨年10月の来日記者会見外部リンクで、「日本に薬が入ってこない『ドラッグロス』が悪化する恐れがある」と話した。
日本の製薬業界団体「日本製薬工業協会」は19日、「事業戦略本部」を設置し、MFNなど世界情勢の変化への機動的な対応を組織横断で検討すると発表した。一方、厚労省は2026年度の薬価改定でも薬価引き下げ方針を維持。MFNによるドラッグロスの恐れを指摘しつつ、「機動的な対応ができるよう、革新的新薬の薬価の在り方については引き続き検討する」と明記する外部リンクにとどめた。
新薬の高騰を受けて、各国政府は価格設定の透明性向上に努めている。ほとんどの欧州諸国が現在、薬の費用対効果を評価するために「医療技術評価(HTA)」の実施を求めている。アメリカで広く利用できる薬がヨーロッパの一部の薬価規制当局に承認されなかったのは、薬の利点は価格を正当化できるものではないとHTAで判断されたためだ。日本でも2019年に費用対効果評価制度が導入された。
これに伴い、日欧では薬価の引き上げが難しくなっている。加えて国民からの厳しい視線もある。昨年11月、スイスのエリザベット・ボーム・シュナイダー内務相は独語圏のスイス公共放送(SRF)の取材に対し、「米国価格のためにスイス国民が健康保険料を負担することはできないし、負担する必要もない」と語った。
イギリス政府は昨年、高関税率回避のためにアメリカと貿易協定外部リンクを締結し、その中で2035年までに新薬の価格を25%引き上げることに合意した。だが複数の製薬会社によると、米国価格との差を縮めるにはまだ十分でないという。
欧州連合(EU)は別の問題も抱えている。昨年12月に合意された医薬品規制改正が2026~28年に段階的に施行されるためだ。この改正が特に重点を置くのは加盟27カ国全域の医薬品アクセスの向上で、製薬会社に対し、全ての加盟国の供給要請に応じるよう求めている。つまり、EUのいずれかのMFN非参照国で発売すれば、参照国での発売を強制される恐れがある。
MFNは更に、製薬会社と裏で値引き交渉するという、保険適用薬リストの薬価をめぐって欧州各国政府が何十年も採用してきた戦略を覆す可能性がある。グルバート氏によると、リスト掲載の薬価は、正味価格と呼ばれる実際の支払額に比べて70%も高い場合があるという。だが、アメリカに開示を要求されれば、正味価格を隠し続けるのは困難になるだろう。
最終的に、MFNの下で欧米の患者の状況が改善される保証はない。もし製薬会社がヨーロッパで発売しなければ、ヨーロッパの患者は薬のない状態に置かれ、アメリカの患者は開発コストを更に多く負担することになる。加えてMFNには、製薬会社がヨーロッパでの収益減を補うためにアメリカで更に高い価格を設定することを防ぐ仕組みは存在しない。
欧州各国政府が薬価を引き上げれば、多くが主に公的資金で賄われている保健医療制度にこれまで以上の負担がかかり、他のサービスの予算が削られる恐れがある。患者は更に高額な自己負担金を払うようになる可能性が高い。日本では昨年12月、高齢化に伴って膨張する医療費の公的負担を抑えるために、高額療養費の自己負担額の引き上げが決定された。
「多くの人が治療費を払えなくなるだろう」と、欧州がん連盟(European Cancer League)の政策責任者トマ・ミカラウスカイテ氏はメールで述べた。「患者が既に医薬品の遅れや不足に直面している中で医薬品価格が上昇すれば、一部のがん患者は緊急に必要な治療を受けられない状況に陥る恐れがある」
編集:Nerys Avery/vm/ts、英語からの翻訳・追記:鵜田良江、校正:ムートゥ朋子
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