失われた牛を求めて
観光客にとっても、地元の人々にとっても、牛はスイスのイメージと切り離せない存在だ。だが、そのほとんどは外来の遺伝子が混じっている。純粋なスイス由来の牛を探すのは容易ではない。
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スイスでは、牛は至る所にいる。木彫りの置物として土産物店に並び、数々の乳製品のパッケージを飾り、芸術や民俗文化の中にも登場する。
もちろん牧草地や牛舎にもいる。動植物・食品に関するスイスのデータ専門企業「イデンティタス外部リンク」の家畜統計によると、スイスで登録されている牛は2025年4月末時点で150万5003頭、そのうち乳牛は66万4032頭だった。正式に届け出・登録されている動物に限ると、牛はスイスで最も数の多い家畜だ。
スイスにおける牛の歴史は古い。スイス歴史辞典外部リンクによれば、牛が家畜化された最初の痕跡は新石器時代にさかのぼる。以後、世紀を重ねる中で牧畜は大きく発展し、18世紀末にはチーズがスイスの主要輸出品の1つとなった。
脅かされる多様性
こうした歴史を踏まえると、スイスに多くの牛の品種が存在するのは自然な流れだ。ところが、現状は異なる。
スイスの動植物遺伝資源の保全を目的とする機関プロ・スペシエ・ララ外部リンクは、「かつてスイスで記録されていた35品種のうち、現在残っているのはスイス原産のブラウン種、エラン種、原種シンメンタール、エヴォレーヌ種、レーティア灰色牛の5品種だけ」という。
その理由は生産性の追求だ。「現在の牛の育種も専門化の流れから逃れられない。乳量が多い、あるいは短期間で多くの肉を生産できる新しい系統が古い品種に取って代わっている」と同機関は指摘する。
その結果、牧草地で「純粋なスイス牛」を見つけ出すのは難しくなった。大部分の牛の遺伝資源が、全てあるいは部分的に国外の種に由来している。
スイスの牛、世界制覇へ
この変化を嘆く向きもあるだろう。しかし、世界中で何百万頭もの牛がスイス牛の遺伝子を受け継いでいると知れば、多少は慰めになるかもしれない。スイスの牛は、国際市場でも栄光の時代を築いた。
最も顕著な例がシンメンタール種だ。ベルン州アルプス・ジンメ谷原産のこの種は丈夫で乳量が多いうえに成長が早く、文献によれば15世紀にはすでにイタリアへ輸出されていた。19〜20世紀には輸出が急増し、はるか南米やロシアへも出荷された。
現在、シンメンタール種の子孫は世界30カ国以上、全大陸に推定4000万〜6000万頭存在する。主に肉牛として飼育されている。
シュヴィーツ州原産のブラウン種も国際的な成功を収めた。特に米国では「ブラウンスイス種」として定着している。世界最古の乳牛品種の1つとされ、チーズ製造に適した乳を産出する。
米ミシガン州立大学のウェブサイト外部リンクには「ブラウンスイス種の乳は脂肪分とたんぱく質の比率が理想的で、世界で最も人気のあるチーズ用牛の1つ」とある。
ブラウンスイス種協会外部リンクによると、ウィスコンシン、オハイオ、アイオワ各州を中心に飼育が広がった。ブラウンスイス種の人気は米国から世界へと波及した。現在では80カ国以上で600万頭超が飼育されている(試算)。
失われた牛を求めて
一方で牛のグローバル化は地域固有の品種に打撃を与えた。現存する5つの純スイス品種のうち、原種シンメンタール、エヴォレーヌ種、レーティア灰色牛の3種は絶滅の危機にあるとプロ・スペシエ・ララは警告する。
もっとも国境を越えた交流が、品種保存の解決策となる場合もある。レーティア灰色牛がその例だ。かつてスイス南東部グラウビュンデン州アルプスで広く飼育され、厳しい環境に適応したこの牛は、次第にブラウン種に取って代わられ、1920年代にはスイスから姿を消した。しかし1980年代、同機関はチロル地方(オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部地域)に残存していたわずかな個体をもとに、スイスへの再導入に成功した。
一方で、この「失われた牛探し」が常に成功するわけではない。その一例がフリブール種だ。白地に黒の斑点を持つこの種は、かつてフリブール州で広く飼育されていたが、乳量に優れるカナダ産ホルスタイン種との交雑が進み、1970年代には完全に姿を消した。
牛の頭数が最も多く、グリュイエールチーズやクレーム・ドゥーブルの発祥地でもあり、州旗の色も黒と白というフリブール州にとって、これはアイデンティティの喪失だった。希望は一度、チリで灯った。1930年代、多くのフリブール出身者が移住した同国に、牛が持ち込まれていたためだ。
だが、2009年にプロ・スペシエ・ララが行った現地調査の結果は厳しいものだった。チリの牛は、在来種やホルスタイン種と十分に区別できず、フリブール種の子孫とは認められなかった。
品種そのものは失われたが、外見だけは残った。現在もグリュイエール地方の緑の谷には、白黒の牛が草を食む光景が見られる。ただし、その正体はカナダ産だ。
編集:Samuel Jaberg、仏語からの翻訳:横田巴都未、校正:宇田薫
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