AIが変える臨床試験の未来
新薬開発にかかる期間の約7割を占める臨床試験を人工知能(AI)で効率化しようとする動きが高まっている。安全・低コスト・迅速化を目指す最新技術と課題をまとめた。
臨床試験にかかる時間とコストは製薬企業が抱える大きな課題の1つだ。新薬開発には通常約10億〜20億ドル(約1590億〜3180億円)のコスト外部リンクがかかり、要する期間(約10年)の半分以上(6〜7年)は人を対象にした臨床試験(第I〜III相試験)が占める。この期間が長引くほど、患者が新薬を待つ時間も長くなる。
新薬の多くは臨床試験を通過できず、時間とコストが浪費される。人を対象にした臨床試験に進む薬のうち約9割は、安全性や有効性が証明できず却下されるのが現状だ。
スイス南西部ローザンヌ近郊にある人工知能(AI)バイオテック企業ツインエッジ・バイオサイエンス(TwinEdge Bioscience、2025年設立、以下、ツインエッジ)の共同創業者で最高ビジネス責任者(CBO)のケイン・バイエンス氏は「製薬業界はこれまで、リスクと失敗は医薬品開発の一部としてただ受け入れてきた。他に選択肢がなかったからだ。だが状況は変わりつつある。デジタル技術がこのギャップを埋めるのに役立つだろう」と話す。
医薬品開発プロセスの創薬(薬を作る)フェーズでは何十年も前からデータ駆動型アプローチが取り入れられてきた。現在ではAI(特に機械学習)技術で膨大な化学的・生物学的データを取り込んだ様々な創薬支援システムが開発され、実用化が進んでいる。今やAI創薬は製薬企業の技術的支柱の1つだ。
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一方、臨床試験フェーズの状況は異なる。スイスの医薬品承認機関スイスメディック(Swissmedic)や米国食品医薬品局(FDA)などの規制当局は、臨床試験で集めたデータに基づいて、薬が患者に投与するのに十分安全で有効かを判断する。患者の安全を脅かす可能性のある早急な判断を控え、慎重に審査を行なっている。
だが近年、電子健康記録(個人の医療情報の記録をデジタル化・一元管理し各医療機関で共有・利用する仕組み)などの実世界データ(現実の世界から得られたデータ)へのアクセス環境が向上し、AI技術が飛躍的に進歩したことで、臨床試験の効率化向上への期待が高まっている。
FDAは今年4月、初期臨床試験におけるAI活用の試験プログラム外部リンクを発表した。初期段階の臨床試験は不確実性や非効率性により医薬品開発の重大なボトルネックとなっている。同プログラムではAI活用により、この段階の意思決定の効率、スピード、精度を向上できるかを評価する。
この取り組みは、適用範囲は限定的ではあるものの、臨床試験のAI導入に対するFDAの前向きな姿勢を示している。初期段階の臨床試験をより高速・安価に実施できる中国の勢いが高まっていることもその背景にある。
事務作業の効率化
臨床試験に時間がかかる大きな原因の1つは、膨大な事務作業が手作業で行われていることだ。更に近年の治験実施計画書の複雑化、臨床試験のグローバル化、医薬品・治療法の複雑化、審査にあたり規制当局が要求する情報量の増加などが状況を悪化外部リンクさせている。
この10年間、AI技術を活用して臨床試験の改善に取り組む新興企業などの数は増え続けている。
特に広く取り組まれているテーマは、AIを活用した治験実施計画書の作成だ。臨床試験の詳細を記したもので、試験の設計・実施はこれに基づいて行われる。作成には通常6〜12カ月かかる。
スイス・ベルンの新興企業リスクリック(Risklick)外部リンクは生成AIを活用し、治験実施計画書を自動作成するソフトウェアProtocol AIを開発した。作成にかかる時間とコストを最大35%削減できるという。ローザンヌのバイオテック企業デビオファーム(Debiopharm)ではProtocol AIをテスト後、導入段階に入っている。
治験参加者の募集改善にもAI利用が始まっている。アメリカの新興企業パラダイム・ヘルス(Paradigm Health)は、製薬企業が臨床試験への応募者の適合性を判断するのを支援するAI駆動型のプラットフォームを開発した。大規模ながんクリニックのネットワークから得られる電子健康記録を利用している。
患者と臨床試験をつなぐ様々なAI駆動型プラットフォームも開発されている。治験参加希望者は具体的な病状や住所から自分に適した臨床試験を探すことができる。例えばスイス発のancora.ai外部リンクや米国国立衛生研究所(NIH)のTrialGPTなどがある。2022年から現在までに101カ国から2万3千人以上がancora.aiでがんの臨床試験を検索した。TrialGPTは人間の専門家とほぼ同じ精度で患者と臨床試験をマッチングできる上、所要時間は4割短縮されると報告外部リンクされている。
意思決定支援
フランス(パリ、ナント)を中心にロンドン、ジュネーブなどに複数の拠点を持つバイオロジー系AI企業オウキン(OWKIN)は、患者の転帰(治療・研究を行なった後の結果)を要因と合わせて予測する深層学習モデルを構築した。同社は現在このモデルをもとに複数の大手製薬企業と提携し、臨床試験の意思決定システムの開発を進めている。
多くの臨床試験を実施するスイスの製薬大手ノバルティスはIntelligent Decision System (IDS)と呼ばれる意思決定モデルを開発した。臨床試験プロセス全体をコンピューター上に再現したようなシステムで、臨床試験を部分的にシミュレートする。これにより、それぞれの実施施設のシミュレーション結果を比較し、臨床試験を中止する可能性のある施設など、潜在的な課題を見つけて解決する。
同システム開発を主導するロバート・マクレガー氏はスイスインフォに対し「臨床試験を1日短縮できれば、患者は1日早く薬を手にできる。だから臨床試験をできる限りスピードアップしたい」と話す。「臨床試験の設計で仮定を1つ変更するだけで、タイムライン全体が完全に変わることもある」
患者の反応シミュレーション
製薬企業は、規制当局の評価・決定に直接影響を与える可能性のある領域でのAI活用にはより慎重な姿勢をとってきた。仮想の患者群が薬にどう反応するかをシミュレートするシステムもその1つだ。こうしたシステムを使えば、人への臨床試験を開始する前に、その結果を予測したり、場合によっては治験参加者数を減らしたりできる。
患者個人のデジタルツインとAIを融合するアプローチもある。デジタルツイン技術は現実世界をデジタル(仮想)空間に再現するもので、その構築や利用にAI技術を活用することで、より高精度なデジタルツインが実現できると期待されている。
患者のデジタルツインはその患者から収集したデータ(遺伝子情報、診療・処方記録、検査の数値・画像データなど)に基づいて作られた数学モデルで、仮想空間のレプリカとして現実に連動して変化する。このデジタルツイン上で、個々の患者の薬やプラセボ(偽薬)に対する反応をシミュレートできる。
前出のツインエッジは、様々ながん患者の分子データを利用し、個々のがん患者の腫瘍のデジタルツインを開発している。同社は製薬企業と連携し、臨床試験の設計に活かすべく、この腫瘍デジタルツインを用いて薬の標的や治療対象者の想定が正しいかどうかの検証を行なっている。
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スイス連邦工科大学ローザンヌ校(EPFL)発の新興企業ソフィア・ジェネティクス(SOPHiA GENETICS、2011年設立、2021年上場)は昨年10月、数百件の病院から収集した個々の患者の臨床・生物学的・画像・遺伝子データに基づき治療に対する反応をシミュレートするデジタルツインを発表した。現在はまだ研究目的のみに限定されている。
同社の創業者で最高経営責任者(CEO)のユルギ・カンブロン氏は「業界として、私たちは実世界(実臨床)データを取り入れていく必要がある。これによって、より適切な薬の処方や併用方法について検討し、その薬の恩恵を受け得る特定の患者層を見極め、更にそれを臨床試験で検証できるようになる」と話す。
アメリカ拠点のアンラーン(Unlearn)はスイスのロシュを含む複数の製薬企業と提携し、実世界データを使ってアルツハイマー病治療薬候補に対する実際の患者の反応をシミュレートするためのデジタルツインを開発している。これを利用することで対照群(治験薬を投与されないグループで、プラセボなどの対照薬が投与される)の規模を最大35%縮小できたと報告外部リンクされている。
成功率の向上
現状で約1割とされる臨床試験の成功率を上げるには、創薬の段階でより確実性の高い新薬を開発することが肝要だ。
近年、化学的・生物学的な大規模データをAI技術とともに巧みに融合し、創薬の精度を上げる様々な精密創薬AIシステムが登場している。創薬の段階で薬物の生体内動態(薬の吸収、分布、代謝、排泄など)や細胞内反応(タンパク質との相互作用など)などの生体内のミクロからマクロまでの情報を考慮することで、より確実性の高い薬の創出を目指すものだ。
名古屋大学の山西芳裕教授(生命・化学情報学)らは、細胞内の全てのタンパク質と薬の相互作用を考慮し毒性や治療効果を予測する方法や、ゲノムと遺伝子発現情報を融合し希少病を含む様々な疾患の創薬標的分子を発見する方法など、大規模データとAI技術を統合した種々の精密創薬AIシステムを開発している。遺伝子、タンパク質、分子間相互作用、疾患の大規模データと機械学習による既存薬再配置を行い、遺伝性脊髄小脳失調症(指定難病の1つ。運動失調あるいは痙性対麻痺を主症状とする)の治療薬候補を選出し、医師主導の臨床研究を実施した外部リンクものもある。製薬企業を介さず、大学の研究者と臨床医の共同で得られた成果だ。
日本の経済産業省の委託事業(2017〜2019年)として奈良先端科学技術大学院大学の船津公人教授(データ駆動型化学・マテリアル情報学)を中心に産官学連携で開発されたAI-SHIPS外部リンクシステムは、化学物質の体内動態、遺伝子・細胞内タンパク質の反応機構とAI技術の融合により毒性と生理学的な体内動態を高精度に予測する。未知物質に対する予測も可能で、医薬品の毒性・副作用予測にも応用できる。
京都大学の奥野恭史教授(ビッグデータ医科学)らは、シミュレーション科学とデータ科学を融合し、創薬から医療までを総合的に支援するシステムの開発を進めている。京都大学病院と連携し、電子カルテなどの臨床データも取り込む。多様な医薬関連データとAI技術の融合により、薬効・安全性を総合的に考慮した精密な創薬を目指している。
AI活用の課題
臨床試験のAI活用に共通する課題は、知識ギャップの存在とデータ確保の困難さだ。
細胞を対象にした知見と人の生体内反応との間には知識ギャップがあり、創薬から臨床実験に進む際の大きなボトルネックになっている。「細胞レベルで行なってきた創薬の基礎研究から、いかにして高い成功率でより迅速に人を対象にした臨床研究・臨床試験に持っていけるかが最大の課題だ」と奥野氏は指摘する。
臨床試験に先立つ動物実験の問題もある。「事前に動物実験で薬効・安全性が確認されないと、人での大規模な臨床試験は難しい」と山西氏は話す。
「生体内(in vivo)データを得るにはコストと時間がかかる。世界的に動物実験廃止の流れにあることもデータ取得を難しくしている」と船津氏は説明する。「臓器群を模倣した人工組織による毒性や生理学的な体内動態の解明の取り組みも進められている。保持期間や再現性など様々な課題があるが、今後の発展が期待される分野の1つだ」
オウキンの創業者で最高経営責任者(CEO)のトーマス・クロゼル氏は「生命科学の知識が深化すれば臨床試験をより適切に実施できる。対象にすべき疾患・患者集団を明確にできるからだ。だが、なぜアルツハイマー病が発症するのか、なぜある種のがんは再発するのかなどについて、いまだにほとんど分かっていない」と話す。
臨床データのアクセスの問題もある。プライバシー関連法規制のために臨床研究に利用できないケースがある上、入手できてもAI利用可能な形式になっていないデータも多い。
AIモデルの透明性も課題だ。規制当局による審査では、なぜその結論に至ったのかの詳細な説明が求められる。だが現在のAIモデルの多くは不透明なブラックボックスで、出力に至ったロジックや理由を提示できない。高性能化に加え、AI-SHIPSで行われているような説明可能なモデル設計が重要になる。
様々な課題はあるが、規制当局は確実にAI活用の検証に向けて柔軟な姿勢を見せ始めている。FDAが4月に発表した前出の試験プログラムもその一例だ。欧州医薬品庁(EMA)も希少疾患の臨床試験でのデジタルツインの活用に前向きな意向外部リンクを示している。スイスメディックは臨床試験におけるAI利用に関する国際的なガイドラインの策定外部リンクに積極的に取り組んでいる。
ツインエッジのバイエンス氏は「今後数年間で臨床試験のあり方は変わると楽観的に見ている」と話す。「こうした技術の実証的な検証研究が進めば、規制当局も無視し続けるわけにはいかなくなるだろう」
編集:Nerys Avery/vm/gw、英語からの翻訳・追加取材:佐藤寛子、校正:大野瑠衣子
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