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知的財産保護、緩和なら将来のパンデミックを闘えない

Thomas Cueni

世界貿易機関(WTO)では知的財産保護を緩和しようという議論がなされている。だが必要なのはもっと現実に目を向けることだろう。

新型コロナパンデミックと戦うための感染症危機対応医薬品(MCM)の供給を支えたのは、科学とイノベーションだった。だが2020年10月以降はMCMを供給してきたイノベーションシステムそのものが危機に瀕している。WTOが昨年夏、非常に政治的な議論の末に新型コロナワクチンの開発企業の知的財産保護を弱める決定を下したためだ。

この時加盟国は、この決定を新型コロナウィルス感染症の診断薬と治療薬にも適用するかどうかの判断を先送りした。適用を「拡大」するといえば聞こえはいい。

賛成派は知的財産権がMCMの製造・供給・アクセスを妨げていると主張する。権利が放棄されれば、超過需要に対応できるメーカーを迅速に増やすことができると論じる。MCMへのアクセスは重要度の高い優先事項ではあるが、問題の真相は別のところにあった。WTOが根拠にしてきた供給計画はそもそも最初から前提が間違っていたのだ。

ワクチンや治療法、検査法など途上国が新型コロナと戦うために必要なツールは、知的財産権のせいで入手できないわけではないことは事実が示している。それどころか新型コロナに対するソリューションが記録的な速さでもたらされたのは、強力な知的財産保護が長年にわたって医薬品のイノベーションを成功させてきた結果だ。

mRNA技術を例に挙げよう。この技術が出現したのは1960年代。知的財産権の枠組みに支えられながら数十年にわたる研究開発が続けられ、mRNAをリピッドバブルに封入することでワクチンとして投与可能になったのはごく最近のことだ。こうして最も効果的な新型コロナワクチンが複数開発され、数十億本製造され、数百万人の命を救い、パンデミックが世界経済にもたらす甚大な損失を食い止めることができた。

投資家は独ビオンテックやモデルナなどの企業に対して、リターンを得る保証のないまま10年以上にわたってmRNAプラットフォームの開発に数十億ドルを投じできた。これらの企業が新型コロナワクチンの開発に成功して完全に商品化したのは、ようやく2020年になってからだ。

また、知的財産が保護されてきたからこそ、企業は自発的に提携すべきだと確信を持つことができ、世界中で必要な生産規模の拡大が可能になった。実際に、自発的な技術提携は「自発的」であることが重要だと初めて認識したのは途上国のワクチンメーカーだった。生産、労働力、供給、品質、規制当局の承認における課題は、協力して解決するしかない。

新型コロナ治療外部リンクにおいて、知的財産権は150以上の自発的ライセンス提携を実現した。その96%は企業対企業の二者間または医薬品パテントプール(所有する特許権を共同設立会社に集めて管理する仕組み)による複数者間での技術移転協定だ。これらの提携関係には特許のライセンス供与のみならず、広い意味での技術移転やノウハウの共有も含んでいる。

新型コロナ治療に対する世界的な需要は、高所得国だけでなく低所得国でも下落傾向にある。ACTアクセラレーターCOVID-19治療パートナーシップによると、世界基金とユニセフ(UNICEF)が低所得国のために確保した1300万クール(治療単位)の経口治療のうち、要求があったのは約3%外部リンク、22カ国だった。現在は低・中所得国向けに段階的な価格設定と非営利協定の組み合わせが実施され、アフリカおよび全ての南アジア諸国の99.9%で重要な治療にアクセスできる。

実際、権利放棄を拡大するかどうかの議論は痛みを伴う。議論そのものが不確実性をもたらすだけでなく、新型コロナウィルス感染症に取り組み、将来的なパンデミック対策のためのツールを開発するイノベーションセクターに間違ったシグナルを送ることになる。

短期的には、知的財産の現行の枠組みを弱体化させることで世界各国、特に低所得国の生産能力が損なわれ、生産品質も低下する。

例えばインド、バングラデシュ、エジプト、南アフリカでは、数十社が開発企業と共同で新型コロナ治療薬を任意ライセンスに基づいて製造している。これらの企業は専門技術を共有し、厳しい品質保証方針に従い、患者を守るための有害事象データ収集をサポートすることで合意している。

いかなる形の強制実施権や権利放棄も、患者の安全を守る厳格な規制報告や品質保証の枠組みを妨げる。特に低所得国の患者には、使用される新型コロナ治療薬のメーカーが厳しい品質管理を行っているかどうか確認するすべがない。規定に従った監視が行われないと、規格外や粗悪な医薬品、さらには偽の医薬品が市場に出回る可能性が生じる外部リンク

長期的には、権利放棄によって将来的なイノベーションが不確実になる。現在新型コロナ治療法には臨床開発中の新薬等が884件ある。権利放棄となれば、リスクのある投資を継続するために極めて重要なインセンティブが失われるだろう。既存のウィルスまたは新たな変異株による症状を緩和するための新しい治療法、またはコロナ後遺症の治療法が危険にさらされる恐れがある。別の適応症の医薬品(承認済みまたは開発中)で、新型コロナウィルス感染症に転用できるものも影響を受けるだろう。権利放棄によって生じる不確実性は、心血管疾患、リウマチ、HIVなど約434の適応症の有望な治療法に影響が出るだろう。

最終的に権利放棄は既存のパートナーシップ、地域産業の繁栄や小規模なバイオ技術企業の育成も損なうことになる。

加盟国は真のボトルネックがどこにあるのか、あらためて特定する努力が必要だ。貿易障壁を取り払い、サプライチェーンと供給システムの強化をサポートすることが求められる。また、検査の継続、治療法に関する社会の意識向上、訓練によりスキルアップした医療従事者の増員、物流の改善、規制の合理化と強化など、実行できることはまだまだある。

※この記事で述べられた見解は筆者に帰属し、必ずしもswissinfo.chの立場を代表するものではありません。

英語からの翻訳:井口富美子

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SWI swissinfo.ch スイス公共放送協会の国際部

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