スイスが「対ウクライナ制裁」を法制化しなかった理由
スイスの中立原則は海外で誤解されがちだ。だがその解釈は国内でも一様ではない。攻撃を受けているウクライナへの対応をめぐる国内の議論がそれを如実に表している。
国家の法律は、その国の自己認識を雄弁に物語る。逆に、ある法律が制定されていないことが、その国家について多くを語ることもある。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻を受け、欧州連合(EU)とアメリカはロシアの組織や個人に対して広範な制裁を課し、スイスもこれに追随した。
見落とされがちなのは、スイスも紛争当事国であるウクライナに対して制裁を課しているという事実だ。これは、「紛争当事者にいかなる軍事支援も提供してはならない」とするスイスの中立原則に根ざしている。これはどちらが侵略者であるかに関わらず、あらゆる紛争当事者に適用される。
スイス政府は緊急権を発動し、軍事目的に転用される可能性のあるウクライナへの物資輸出を阻止した。だがこの緊急権は一時的なものであるため、4年後には法律が制定されるはずだった。つまり、スイスはウクライナに対して正式な制裁措置を課すことになっていたのだ。
だが議論は二転三転し、法制化は見送られた。何かが変わったわけではないが、議論そのものは中立をめぐる論点、そして中立国であるがゆえにスイスが持つ外交政策上の自由度といったことを明らかにした。
スイスの特殊な立ち位置
連邦政府は法案をまとめたものの、事前の意見聴取手続きでほとんどの政党と経済団体が反対したため、議会への提出を断念外部リンクした。だが、政府は「中立原則に基づく輸出・通過禁止措置は、引き続き既存の軍需品法によって規制される」として、承認手続きには変更がないと明言した。
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それは、ウクライナへの「制裁」維持を意味した。それでも、わざわざ立法することで友好国から後ろ指を指されるような事態は回避できた。近隣諸国は近年、スイスを日和見主義的だと繰り返し非難している。
歴史家であり左派・緑の党(GPS/Les Verts)所属の政治家マルコ・ジョリオ氏は、法案を「おそらく世界で唯一の反ウクライナ法」と呼び、批判の急先鋒に立った。「想像してみてほしい。スイスが中立原則をかさに着て、侵略されたウクライナに独自の反ウクライナ法を作って制裁を科す――全くばかげている」
スイスは通称「禁輸法外部リンク」に基づき、国連や欧州安保協力機構(OSCE)、または「最も重要な貿易相手国」からの制裁措置を採用するかどうか、またどのような形で採用するかを独自に決定できる(例外として、国連安全保障理事会が決めた制裁措置は、必ず採用しなければならない)。
また軍需品法外部リンクは、軍需物資の生産と移転を規制する。スイスの軍需物資を国内・国際紛争に関与している国に輸出することを禁じている。
物品管理法外部リンクは「特殊軍事物資」の取り扱いを規制する。防弾チョッキ、ヘルメット、迷彩ネットなども含まれ、これらも現時点ではウクライナへの輸出が禁止されている。
たとえ明確な法的根拠なしにその方針が維持されるとしても、その政策については未だに批判が消えない。左派・社会民主党(SP/PS)のフランツィスカ・ロート下院議員は、「完全に中立を保ち、加害者と被害者を区別できない者は、道徳的に破綻している」と話す。同氏は法案が成立しなかったことは歓迎しつつ、政府が今も「反ウクライナ政策」を追求し、それを「無謀な新法」に落とし込もうとしていると批判する。
一方、議会第1党である右派・国民党(SVP/UDC)は、対ロシア制裁に批判的だ。2022年時点で制裁措置は「中立の信頼性を損なう」と主張外部リンクした。ジャン・リュック・アドール下院議員は最近、親政府系ロシア紙イズベスチヤのインタビューで、同じ主張を繰り返した。アドール氏はスイスインフォの問い合わせに応じなかった。
意見聴取手続きで法案に賛意を表明したのは、中道右派の急進民主党(FDP/PLR)だけだった。国民党も急進民主党も、法案が廃案になったことには沈黙した。
スイス国内で起きた政治的議論は、スイスの外交努力とかけ離れたものだ。スイスはこれまでにウクライナ戦争に関する国際会議を複数回開催し、ジュネーブでは当事者間の協議もホストした。外務省はまた、和平交渉の仲介役に繰り返し名乗りを上げている。
言葉遣いの問題
議論の中心にあるのは、スイスの中立主義の特異性、すなわち1907年のハーグ条約の位置づけだ。政府が引用する中立原則も、多くはハーグ条約に依拠している。スイスが厳格に遵守する平等原則もその1つだ。
国際法の専門家のなかには、侵略戦争の場合、国連憲章の平等原則は失われるとの主張もある。国際法の下では、ウクライナはロシアの侵略に対して自衛する権利を有しており、侵略は国連が定めた武力行使禁止の明白な違反に当たる。したがって、被害者への援助は中立と両立する。
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外交
スイスのウクライナ戦争への対応は、他のヨーロッパ諸国から繰り返し批判されてきた。例えば、ドイツがスイスから輸入した軍需物質をウクライナに再輸出することを、スイスが許可しなかったときだ。
スイスのイグナツィオ・カシス外相は最近、「スイスはこの激動の世界を『どうにか切り抜ける』べきだ」と述べたことで物議を醸した。この発言が、自国の利益を守るための現実的な方法を見つけるべきだ、と捉えられたからだ。激しい批判に対し、カシス氏は「場当たり的な対応は欠点ではなく、賢明な政治の原則である」と言い、火に油を注いだ。
この発言が多くの反感を買ったのは、その表現自体の独創性や単純さというよりも、むしろスイスの外交政策がまさに「どうにか切り抜ける」精神で進められているという実感があるからだろう。進歩主義者にとっては決意が弱すぎると映り、孤立主義者にとっては行き過ぎだと映る。
スイスのウクライナへの対応にもそれが表れている。言葉遣い一つとっても、そのバランス感覚は明らかだ。スイス政府はロシアに対しては「制裁措置」と明言する一方で、ウクライナについては「ウクライナ情勢に関連する措置」とぼかしている。
ロシアは、スイスが制裁措置によって中立を放棄したと批判した。だがスイスがロシアに課す約30種の制裁措置のうち、一部は数十年前から続いている。
スイス国民はこれをどう見ているのか。年初に行われた世論調査では、80%が中立を支持し、56%がウクライナへの武器供与に賛成した。つまり国民の大部分は、中立とウクライナへの武器供与に矛盾を感じていない。
議論は今後も続く見込みだ。スイスでは今年後半、中立原則を憲法に明記することを求める「中立イニシアチブ」が国民投票にかけられる。可決されれば、紛争当事国への制裁は憲法で禁止されることになる。
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編集:Benjamin von Wyl、独語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫
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