スイスの銀行規制小史 スキャンダルに揺れた110年
経営破綻、収賄、租税回避、マネーロンダリング(資金洗浄)。スイスの銀行はスキャンダルのたびに国外から非難を浴び、規制が強化されてきた。一方、金融界のロビー活動によって規制が骨抜きにされることも珍しくない。20世紀初めからクレディ・スイス破綻までの約1世紀の歩みを追った。
おすすめの記事
ニュースレターへの登録
大手銀行クレディ・スイス破綻(2023年)から3年。スイス連邦政府は、銀行監督に関する新たな権限の導入を計画している。同規模の金融市場を持つ国は既に長年有する手段だ。
計画によれば、連邦金融市場監督機構(FINMA、日本の金融庁に相当)が罰金を科したり、問題のある銀行名を公表したりすることが可能になる。当初からFINMAにこの権限があれば、クレディ・スイスの不正行為について、迅速かつ包括的に明らかにできたはずだ。
だが、連邦議会では早くも抵抗の動きが出ている。昔から繰り返されてきた光景だ。スイスはそもそも国として銀行を規制すべきなのかという点について、長い議論の歴史がある。規制をめぐる最初の連邦法案は1916年に策定されたが、世界恐慌が起こるまで当局の引き出しにしまわれたまま、放置されていた。
1931年に起きたジュネーブ銀行(Banque de Genève。現在のジュネーブ州立銀行とは別)の破綻と、1933年に1億フランもの公的資金が投入されたスイス・フォルクスバンクの危機によって、政界は対応を余儀なくされた。銀行や貯蓄銀行に関する連邦法を取り急ぎ成立させ、ある財務相は後にこれを「必要から生まれた子ども」と表現している。
1935年3月1日に施行されたこの法律は、流動性と自己資本に関する規定を設け、債権者の保護を主な目的としていた。実施・監督機関は5人の委員からなる独立公的機関、連邦銀行委員会(EBK/CFB)だ。
独裁者の資産をめぐる収賄事件
1960年代半ば、EBKを初の大スキャンダルが襲った。連邦政府は1965年6月4日、EBKのマックス・ホンメル委員長を即時解任する決定を下した。
ホンメル氏はベルンで経営していた会計事務所で、スペイン人投資家フリオ・ムニョス氏が所有する2社に助言を行い、見返りとして月2000フランを受け取っていた。問題視されたのは、ホンメル氏がEBKの他の委員への報告を怠った点だ。ムニョス氏が、1961年に暗殺されたドミニカ共和国の独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーヨ・モリナ元大統領が保有していた資産をヨーロッパで運用していた人物だったためだ。
ムニョス氏は複数のスイス人から名義を借り、ザンクト・ガレンとジュネーブの堅実な2銀行を買収した。2行はムニョス氏の影響下にある外国企業に対し、保証もなしに多額の融資を行ったが、銀行を監督する立場にあったホンメル氏は黙認した。
融資の返済が滞ったために、2つの「トルヒーヨ銀行」は破綻し、スイス銀行コーポレーションに引き継がれた。当局と銀行は、残虐な独裁者の遺産からスイスへ流入した資金をめぐる不祥事をできるだけ静かに片付けようとした。ホンメル氏は、法廷で責任を問われることはなかった。外国資本下の銀行が認可を受ける義務が明確化されたことだけが、唯一の法的な成果だった。
スイスに流入した独裁者の資産についてまとめた記事はこちら
おすすめの記事
資産隠しの重大スキャンダル スイスの過去と現在
イタリアから流入した租税回避資金
1977年4月、租税回避のためにイタリアから流れ込んだ資金が原因で、スイス信用銀行(SKA、後のクレディ・スイス)が危機に陥った。スイス南部ティチーノ州の南端、イタリア国境に接する街キアッソのSKA支店が、イタリア人顧客から預かった資産を密かにリヒテンシュタインのペーパーカンパニーへ移していたことが発覚した。この会社は「銀行の中の銀行」として、15年間で22億フランの資金を融資に回したり、主にイタリアで銀行以外の業種に投資したりしていた。
このリヒテンシュタインのペーパーカンパニーは、キアッソ支店の不良債権や、支店幹部が有価証券投機で出した損失の受け皿にもなっていた。損失は計14億フランに上り、これは当時、スイス史上最大規模の銀行スキャンダルとなった。
46年後のクレディ・スイス破綻とは異なり、SKAは救済された。スイス国立銀行(SNB、中央銀行)が4月26日深夜、スイス銀行コーポレーションとスイス・ユニオン銀行の2大銀行(1998年にこの2行が合併してUBSとなる)とともにSKAを支援し、必要であれば最大30億フランを融資すると発表した。融資が実行される局面はなかったが、この発表によって信用が高まり、取り付け騒ぎは回避された。
当時のSNB総裁フリッツ・ロイトヴィラー氏は、時限爆弾が炸裂したと語り、このスキャンダルの後で何事もなく通常業務に戻ることはできないと判断した。SNBは金融セクターに対する信頼回復のため、銀行の業界団体と協力し、わずか数週間で行動規範をまとめ上げた。この「資産受け入れ時の注意義務と銀行秘密の取り扱いに関する申し合わせ(VSB)」は、スイス金融界のあらゆる自主規制の生みの親と見なされている。
銀行秘密をめぐる国民投票
「キアッソ・スキャンダル」を受け、左派の社会民主党(SP/PS)が租税回避と資本流入の法的予防措置を求め、銀行守秘義務の見直しを問うイニシアチブ(国民発議)を立ち上げた。時期的な要素と銀行業界によるロビー活動の結果、1984年5月の投票では73%の反対で、イニシアチブは否決された。金融界はこれを、銀行秘密が国民に支持されたものと見て歓迎した。連邦内閣(政府)は銀行の行動規範の一部法制化を見送り、当時のヴィリ・リッチャート財務相(社会民主党)は、「銀行秘密は修道女のように不可侵だ」と述べている。
2年後の1986年春、スイスの金融セクターが再び世界中の見出しを飾った。3月24日、米国に逃亡中のフェルディナント・マルコス元フィリピン大統領がスイスの銀行に預けていた資産について、連邦内閣が連邦憲法の定める「緊急事態」を根拠に凍結した。これが、スイスが権力者の資産の取り扱いを変える転換点になった。
マルコス資産の凍結に関する記事はこちら↓
おすすめの記事
マルコス資産の凍結から40年 スイスの脱「隠し金庫」の契機に
停滞するマネーロンダリング対策
1980年代後半、「ピザ・コネクション」や「レバノン・コネクション」に絡む麻薬資金のマネーロンダリングがスイス金融界を揺るがした。スイス初の女性閣僚エリザベート・コップ氏が夫をめぐる疑惑で1989年初めに辞任すると、政局はにわかに慌ただしさを増し、資金洗浄に関する2つの法規制が当初の予定より早く制定された。
とはいえ、国際ルールの導入は遅々としていた。銀行業界団体は宣伝攻勢によってスイス金融界のイメージ回復を図ろうとし、1999年には政府と中央銀行の支援のもと、同国のマネーロンダリング対策は国境を越えて模範となる取り組みだと喧伝した。
ところが同じ1999年、前年に死亡したナイジェリアの独裁者サニ・アバチャ氏が、5年間の任期中に略奪した数十億ドルの資産を国外に移していたことが発覚する。このうち6億6000万ドルがスイスの19銀行に預けられており、予防的措置として凍結された。スイス当局は銀行セクターへの苛立ちを募らせ、EBKが全19行の名称を公表。これは情報公開政策において前例のない出来事だった。
この強硬路線は1年後にも継続された。ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領と、側近だった元情報局顧問ブラディミロ・モンテシノス氏の汚職資産がスイスの銀行で発見された。EBKは該当する銀行名を公表しただけでなく、初の事例として、イスラエルに本社があるレウミ銀行のスイス支社社長を解任した。
名称を公表して批判にさらすやり方は、2009年初めにFINMAが設立されると影を潜めた。FINMAは、EBK、連邦民間保険局、連邦マネーロンダリング対策局が統合し新設された機関だ。
FINMAは、スイスの最大手銀行UBSが破綻寸前となった苦い経験から生まれた。UBSは2008年秋、一時的に部分国有化され、中央銀行が資金提供する「バッドバンク(不良債権を引き受ける機関)」によって救済された。多額の資金投入の末、「システム上重要な銀行」が納税者の負担によって救済される事態を将来的に防ぐための規定が設けられた。
FINMAの最初の試練は2023年春に訪れた。このとき危機に陥ったクレディ・スイスに対しては、「大きすぎて潰せない」という考え方は適用されなかった。国際的な圧力の下、政府と中央銀行、FINMAがクレディ・スイスをUBSに買収させた。それ以来、銀行の安定性をめぐる模索は振り出しに戻っている。
編集:Benjamin von Wyl、独語からの翻訳:鵜田良江、校正:宇田薫
おすすめの記事
外交
JTI基準に準拠
swissinfo.chの記者との意見交換は、こちらからアクセスしてください。
他のトピックを議論したい、あるいは記事の誤記に関しては、japanese@swissinfo.ch までご連絡ください。