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クレディ・スイス、息切れした「信用の蒸気機関」 160年の歴史

SKAのスキー帽をかぶった子供
赤と青の横縞に十字のような模様が描かれたSKAのスキー帽をかぶる子供たち。クレディ・スイスは1970年代後半、イメージチェンジを図るために80万個のスキー帽を用意し、未来の顧客となる子供たちに無料配布した Keystone

ライバル行のUBSに買収されることが決まったスイス第2の銀行、クレディ・スイス(CS)。同行の歴史は、スイスの金融センターのイメージの変化を象徴している。銀行の秘密主義による資本逃避から利益を得た控えめなバンカーから、リスクを恐れない投資銀行家へと変貌した160年の歩みを追った。 

クレディ・スイスの前身はSKA(スイス信用銀行)だ。1980年代ごろまではその名前で知られ、国内にその名を知らぬ者はなかった。何千人ものスイスの子供たちが、赤と青の横縞に十字のような模様が描かれたSKAのスキー帽をかぶっていた。当時、子供たちが学校で頻繁にスキー帽を取り違えたためにシラミが大流行したのは、SKAのせいだと言う悪意ある声さえあった。このスキー帽は1977年までに80万個が無料で配られ、1993年まで生産された人気製品だった。ドイツにゴルフ世代があったように、スイスにはSKA世代があった。 

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担当: Matthew Allen

なぜ納税者がクレディ・スイス救済のツケを払わなければならないのか?

また、どうすれば銀行システムをより安全なものにできるのでしょうか?

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今でもその人気は衰えず、インターネット上では200フラン(約2万8千円)以上で売買されているこのスキー帽だが、2022年の秋には、クレディ・スイス株よりもはるかに良い投資先だとやゆされた。そしてその嘲笑は今や現実になった。クレディ・スイスのざんがいは、UBSが引き継ぐことになった。 

創業期へのノスタルジー 

ノスタルジーが、このスキー帽の価格をさらにつり上げるだろう。クレディ・スイスの起源は、「企業『スイス』」(フリードリヒ・デュレンマット)の神話的に高められた始まりにさかのぼるからだ。この19世紀の創業期、スイスは貧民国から経済的プレーヤーにのしあがる。SKAを設立したのは、今でも多くの人が敬愛する強き男、そして実行者であるアルフレッド・エッシャーだ。 

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チューリヒ中央駅前に立つエッシャーの銅像。エッシャーの足元には水を吐く竜が鎮座する。これは(稀代の事業家だった)エッシャーが川をまっすぐにさせたこと、また、ゴッタルド山塊の掘削事業を行ったのはほかでもないエッシャーだったという寓話を思い起こさせる。エッシャーの北東鉄道は、数百キロメートルに及ぶ線路を持ち、スイスの鉄道の基礎となった。 

これらの事業資金を支えたのが、エッシャーが1856年に他の実業家たちと設立したSKAだった。この「信用の蒸気機関」が、エッシャーが自身の鉄道網を拡大するのに必要な資本を提供した。また、スイス初の大手銀行として、国の産業化に必要な大規模融資を行うことができた。 

1870年、SKAは事業を拡大し、ニューヨークとウィーンに支店を開設した。スイスでは、チューリヒに重点を置き、1876年以降、市中心部のパラデ広場に本店を置いている。同広場は現在、文字通りスイスの金融センターの中心地だ。1897年には、後にUBSに統合されるスイス銀行もここに拠点を構えた。ここから両行の競争が始まり、最終的にUBSによる買収で幕を閉じた。 

クレディ・スイス(右側の建物)と対峙するUBS(左側の建物)
パラデ広場の「決闘」:クレディ・スイス(右側の建物)と対峙するUBS(左側の建物) © Keystone / Michael Buholzer

第一次世界大戦後、資本逃避によってスイスの銀行部門は急成長を遂げた。SKAは、1928年以前の海外事業の発展は「特別な訓練を受けた人材」によるものだったと説明した。第二次世界大戦中、SKAは他のスイスの銀行と同様、ナチスと事業取引を行い、略奪された金塊と知りながらそれを受け入れていた。(その後1960年代に、クレディ・スイスの日報が初めて、銀行秘密が1934年に設立されたのはユダヤ人の口座をナチスから守るためだったという奇妙な説を流した) 

スキャンダルにまみれた組織 

第二次大戦後、SKAの資産は膨れていく。1945年には39億フランの有価証券を管理していたSKAは、1970年には470億フランを保有するまでになった。外国為替取引も行い、スイス南部ティチーノに自前の金精製所を持つまでになった。そして銀行秘密を後ろ盾に、世界各国の退避資産を受け入れた。だが、クレディ・スイスは海外進出を避ける傾向にあった。 

だからこそ、同行はスイス銀行コーポレイションやスイス・ユニオン銀行(1998年にUBSに合併)のようにはならなかった。あまり革新的でない真面目な銀行という、同行の評判によるところもある。 

クレディ・スイスのあの有名なスキー帽は、小口預金者とスイス国民の心をつかむためのイメージ修正キャンペーンの一環だった。1970年以降、クレディ・スイスは若者向けの貯蓄口座を開設するなど、よりオープンなコミュニケーションと少額貯蓄者の獲得に努めた。 

SKAスキー帽をかぶる子供
インターネット上では200フラン(約2万8千円)以上で売買されているこのスキー帽だが、2022年の秋には、クレディ・スイス株よりもはるかに良い投資先だとやゆされた Credit Suisse

だが1977年、同行は「キアッソ・スキャンダル」に揺れた。SKAは長年、イタリアの富裕層からリヒテンシュタインの偽装金融機関を通じて総額20億フラン超に上る無申告の資金を受け入れ、さらにそれを不適切に投資していたのだ。SKAはマネーロンダリングだけでなく、銀行としての無能さでも非難された。  

しかし、クレディ・スイスは動いた。経営陣の何人かを切った。だが何よりも、帽子市場を席巻し、あまたのスポーツのスポンサーになることでPR攻勢をかけ、銀行の信頼性を世間に確信させることに注力した。そして、「SKA there for everyone(皆のSKA)」が新たなスローガンとなった。 

このスローガンがいかにどっちつかずなものであったかは、2022年出版の『スイスの秘密』に詳しい。この本は、同銀行がその後も資産隠しのグローバルビジネスに密接に関わり続けていたことを明らかにした。同行の顧客にはマフィアも含まれていたという。 

しかし、1977年の危機に対する対処は、当時、独語圏の日刊紙NZZが指摘したように「銀行の強さの象徴」として再解釈された。どんな危機も乗り切れる強心臓プレーヤーという評判は、最後までクレディ・スイスについて回った。 

銀行家の台頭 

しかし、1977年の危機は、販促品の配布や少額の預貯金では補えない14億フランの損失という痛手を同行に負わせた。1978年、SKAは投資銀行業務に参入し、SKAの姉妹会社として、企業株式を保有するクレディ・スイス・ホールディングが設立された。 

1988年、持ち株会社であるCSホールディングが米国のザ・ファースト・ボストン・コーポレーションを買収。ファーストボストンは1980年代の投資銀行業の活況の中で、特に積極的な行動で名を馳せていた投資銀行だった。買収額は200億フラン超。スイス企業としてはかつてない規模だった。 

1997年、CSホールディングはクレディ・スイス・グループに名称を変更。翌98年、スイス銀行コーポレイションとスイス・ユニオン銀行が合併しUBSが誕生した。両大手銀行は共にしのぎを削る存在となる。 

1990年代、業界は統合に向かう。1990年にはまだスイス国内に495支店があったが、2020年には243支店に減った。CSホールディング・グループは、バンク・ルーを皮切りに、スイス・フォルクスバンク、ノイエ・アールガウアー・バンクを次々と買収した。 

2000年末、ユニバーサルバンク(商業銀行・投資銀行が融合した金融機関のこと)のクレディ・スイスは全世界で約8万人(そのうちスイス国内は2万8千人)の従業員がいた。同年末の株価は約100フラン、利益は57億フランだった。 

パラデ広場での対決 

1990年代の再編成の過程で、SKAの名称は消滅した。そして、国際化が進むにつれて、じわじわと文化的な変化が起こった。世界中のあらゆる資金を慎重に管理する伝統的な銀行が、よりリスクを取るタイプのバンカーへと変容していくのだ。 

これは報酬にも反映されている。2000年代初め、短期間だが深刻な不況があった。2万人の雇用が失われ、株価は20フランを割り込んだ。それでもボーナスはバブルのごとく上がった。2006年、クレディ・スイスは米国で解雇されたある従業員に、1億2千万ドル超の補償金を支払ったという。 

2008年の危機時はカタールの投資家の助けで生き延び、国からの援助は拒否した。かたやライバル行のUBSは連邦内閣の決定で救済されることになった。パラデ広場でのレースに勝ち、クレディ・スイスは最高の評価を得たという印象をここで残したかもしれない。しかし、暗雲がこの大手銀行の頭上をじわじわと覆い始めている。 

クレディ・スイスはよりリスクの高い道を歩み、自己資本比率を下げると同時に、恐ろしく高い給与とボーナスの支払いが話題になった。2014年、クレディ・スイスは米国人顧客の脱税をほう助した罪に問われ、多額の罰金を支払うことになった。  

2020年には、有能な社員がライバル行のUBSに転職することを恐れ、私立探偵を雇ってこの社員を内偵していたとして取締役会が批判を浴びた。2021年にはグリーンシル、アルケゴスの2つの投資ファンドが経営破綻。クレディ・スイスのバランスシートには数十億フランの損失が刻まれた。 

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昨年末、サウジ・ナショナル・バンクがクレディ・スイスの大株主になった。だが、それが同行を救うことはなかった。将来、パラデ広場を見上げる人は気づくだろう。UBSと肩を並べていたクレディ・スイスの名前が、そこから消えていることを。 

独語からの翻訳・宇田薫 


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